昭和19年、戦争も激化する中、小串鉱山は生産を継続し、
年間生産量も1万トンを超えた。
戦後も増加の一途を辿り、年間生産量2万3千トン、正規従業員数は625名、
小串小中学校生徒数は296名となりピークを迎え、硫黄鉱山では岩手県の松尾鉱山に次ぐ規模を誇った。
しかし、硫黄価格の下落、石油精製回収硫黄が安価で市場に出回り始め、
昭和46年6月、小串鉱山は閉山した。
同時に、全国の硫黄鉱山を失った。
小串鉱山地滑り
昭和12年11月11日 地滑りにより児童31名を含む245名の犠牲者を出した。
地滑りは連日の雨により、鉱山社宅上部の山の斜面、斜面の長さ700メートル、
幅30メートルの規模で発生。
8万4千立方メートルの出水と土砂が山津波となって精錬所や住宅、
学校の35棟を埋め尽くした。
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