回旋塔
再起不能とささやかれていたが、時を移さず本店、幌別をはじめ神岡、
三池、釜石などの系列事業所はもちろん、付近の同業各社、
近隣町村からの応援を得て、冬天の風雪の中で昼夜兼行、作業が続けられた。
救助作業者も延べ6万3千7百名で最も多い日は1212名の救助作業員が出動した。

そして翌年3月7日、新製煉窯から最初の煙をあげた。
標高2000メートル、最も寒い時で氷点下20度を超え、荒天のもと吹雪と闘ってこの業績は神業といえる。
地滑りから70余年。
閉山から約40年。
現役当時を思わせるものはほとんどなくなってしまっているが、地滑りの跡や
遺構は、今も存在している。
当時の様子
今回の記事のまとめ

昭和12年11月11日 地滑りにより児童31名を含む245名の犠牲者を出した。

地滑りは連日の雨により、鉱山社宅上部の山の斜面、斜面の長さ700メートル、幅30メートルの規模で発生。8万4千立方メートルの出水と土砂が山津波となって精錬所や住宅、学校の35棟を埋め尽くした。
同時に火災も発生。
作業員も、家に居た人も、校庭で運動中だった生徒も教師も犠牲になり、硫黄の青い炎が幾晩も燃え続け、一体は火の海になり15棟が焼失した。
再起不能とささやかれていたが、時を移さず本店、幌別をはじめ神岡、三池、釜石などの系列事業所はもちろん、付近の同業各社、近隣町村からの応援を得て、冬天の風雪の中で昼夜兼行、作業が続けられた。
救助作業者も延べ6万3千7百名で最も多い日は1212名の救助作業員が出動した。

そして翌年3月7日、新製煉窯から最初の煙をあげた。

標高2000メートル、最も寒い時で氷点下20度を超え、荒天のもと吹雪と闘ってこの業績は神業といえる。
「何もない」
そんなイメージを持って、なかなか脚が向かなかった小串。
しかし、これ以上ない天気に恵まれ、写真としても納得のいく明け方の写真を撮る事ができた。
片道5時間をかけて行った甲斐はあった。

観光化が進む小串鉱山、閉山から40年近く経った今、動きをみせようとしている。
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